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監督 梅田航 インタビュー

監督 梅田航

監督: 梅田 航
1974年千葉県生まれ。
高校生時代にパンクの洗礼を受ける。
日芸写真学科卒業後、WRENCHのマネージャーになり、その後フリーランスのカメラマンに。
2016年 SPACE SHOWER TV ハイスタ特番「Live on our way」、2017年BS スカパー!ハイスタ特番「We are all grown up」のディレクター、ハイスタMV「FREE」ディレクターを経て、今作が映画監督デビュー作。


梅田さんが映像を志したきっかけは?

高校生の頃、映画サークルに所属していて、10人ぐらいの仲間と文化祭で流すための映画を作ったんです。で、その作品を試しに日テレ主催の映像コンクールに送ってみたら優勝して、100万円もらっちゃって(笑)。そのことも後押しして「映画を撮り続けたい」と思うようになって、日芸の映画学科と写真学科を受けたんですけど、映画学科に落ちて写真学科に受かるという(笑)。

あらら(笑)。

本当は浪人して映画学科に行きたかったんですけど、親に「どっちも似たようなもんだから写真に行け」と言われて、いろいろと思うところはあったものの、学費を出してくれるスポンサーだし大人しく従うことにしました。

いきなり波乱の展開ですね。

結局、大学はそのまま卒業して、フリーターをやりながら悶々としているときに、バンドマンの友達から「ライブの写真撮ってくれない?」って頼まれることがあったんです。それまでは“ライブを撮る”という発想は全くなかったんですけど、実際に自分が撮った写真とDollに載ってる写真を見比べて、「俺の写真、意外と悪くねぇな……」って勘違いして、Doll編集部に営業しに行ったら仕事をもらえるようになったんです。

初めての仕事がDollってヤバいですね。

そうなんですよ(笑)。それで、タダでライブが観られる上にギャラまでもらえるし、仕事としても一人で完結する内容だから、これは自分に向いてるかもと思って映像からスチルに方向転換しました。

じゃあ、映像からは全く離れてしまったと。

もちろん、映像もやりたいとは思ってたんですけど、当時はまだ機材も高かったし、そう簡単にできるものではなかったんですよ。それに当時はSEPみたいな映像会社の存在も知らなかったし、心のどこかで「映像をやりたい」っていう気持ちを持ちながらライブを撮ってました。

なるほど。

......なんですけど、気が付いたらWRENCHのマネージャーになってまして(笑)。

どうしてそんな展開になるんですか(笑)。

ライブハウスによく顔を出すようになったことでWRENCHが当時所属していたZK Recordsの社長と知り合って、「うちでレーベルの手伝いしながら写真やればいいじゃん」って誘ってもらったんです。それでZKにお世話になることになったんですけど、レコーディング中のWRENCHに初めて挨拶しに行ったときに、社長が「こいつ、新しいマネージャーだから」って、事前にそんなこと全く聞いてなかったのになし崩し的にマネージャーにさせられて(笑)。でも、マネージャーはアーティスト第一で動く仕事だから、自分の生活が二の次になることが増えていくんですよ。そうなると写真を撮る時間なんて全くなくなって、そういうフラストレーションが溜まってしまって……。もちろん、WRENCHのメンバーのことは大好きだったし、仕事自体もやりがいがあったんだけど、結局、5、6年ぐらいで辞めさせてもらいました。それから徐々にスチルの仕事が増えていって、それが仕事になっていったって感じです。

そこからどうやって再び映像に気持ちが向かっていくんですか?

2008年に発売されたCANONのEOS 5D Mark IIというカメラに動画機能が付いていて、本来はおまけ程度のものだったんですけど、それで撮った映像がめちゃくちゃきれいだったんですよ。しかも、昔と違ってその頃にはPC上で動画の編集ができるようになっていて、「あれ?これ、俺のやりたいことできるんじゃねえの?」って自分のなかでも変化が起きてきたんです。そんなときに、ディジュリドゥ奏者のGOMAさんのジャケット写真撮影に同行することになって、そこで「このカメラ、映像も撮れるんですよ」って自分のEOS 5D Mark IIで撮った映像を見せたら「すげぇ!」ってことになって、「ついでに撮っといて」みたいな感じで動画撮影も頼まれたんです。そうしたら、自分の撮った映像がPVのメインで使われることになって、それ以降、ライブ写真を撮るついでにムービーも頼まれるようになって、映像の仕事が徐々に増えていきました。

技術の進歩が理由だったとは。ちなみに、Hi-STANDARDの存在はどうやって知ったんですか?

僕は中学生ぐらいまで「邦楽はダサい」と思って洋楽しか聴いてなかったんですけど、高校生でパンクの洗礼を受けて、The Clashに代表される初期パンを聴くようになったんです。そんなときに、NOFXとかアメリカのパンクをよく聴いていた友達からハイスタを貸してもらって衝撃を受けました。英語で歌ってるし、音の感じも日本人のものとは思えなくて、それをきっかけに国内のシーンにも目が向くようになりました。で、その友達がハイスタのローディをやるようになったので、その伝手で「撮影できない?」ってお願いしたりしてましたね。

今回の監督の話はどういうことがきっかけだったんでしょうか?

そんなふうにしてハイスタとは少しだけ繋がりがあって、AIR JAM ‘98、2011、2012もスチルで撮影に入っていたし、最近だとNAMBA69のツアーに同行してムービーを回したりしてたんです。で、2015年にハイスタのライブが3本だけあったんですけど、1本目のライブの前日に元々友達だったハイスタのマネージャーから電話があって、「梅ちゃんさぁ、明日カメラ持ってきてよ」って軽く言われて、「行きたい行きたい!」ってすっかり写真を撮るつもりでいたら、「楽屋とかの裏側、全部撮っといて」っていうムービーの話で、なんだかよくわからないまま撮影をしたんです。

なんだかよくわからないまま(笑)。

それで、その翌週にFAT WRECK CHORDSの20周年記念イベントがあって、その煽りのCMを作るようにまたしてもハイスタのマネージャーから急遽頼まれまして。僕はそれまで映像の編集なんてしたことなかったんですけど、編集ソフトは一応持っていたので適当に作ってみたら、マネージャーもメンバーもすごく褒めてくれて、それをYouTubeにアップしたら一晩で100万回ぐらい回っちゃったんです。

あれは確かにいい作品でした。

ちょうどその頃、その3本のライブをまとめたハイスタ特番をスペシャで制作することが決まっていたんですけど、監督までは決まっていなくて、そこでメンバーが「ディレクター、梅ちゃんでいいじゃん」って言ってくれたんです。もちろん、僕はそれまでに番組なんて作ったことなかったけど、様々な人の協力を得ながらなんとか番組にしました。一人じゃ絶対にできなかったですね。その甲斐あってか、一般的にはどうだったかはわからないけど、メンバーからのウケはすごくよかったんです。

粗さはあったけど、それがまたいい味になっていた番組でしたよね。

結局、ハイスタはその3本のライブで手応えを得て、新しいフェーズに向かっていくことになるんですけど、「じゃあ、これからの活動を全部撮って映画にしちゃう?」っていうアイデアが飛び出して、僕のところに話が来たっていう。でも、作品を作るのなんて最初に話した高校生のとき以来だし、しかもそのときとはレベルが違うから最初はどうしようかと思っていたんですけど、こんな経験のない奴に映画の監督を任せるなんてパンクだし、これを断ったら男が廃ると思って、「じゃあ、やります!」と。

どういう作品にしようと考えていましたか?

正直、何も考えていませんでした。最初にメンバーとマネージャーから言われていたのは、「ヒストリーをまとめたい」ということだったので、ハイスタには過去映像がたくさん残ってるし、「好きにやれ」って言ってもらえて(笑)。

それはすごい。

最近は、Hi-STANDARDという名前は知ってるけど、実際にどういう活動をしていたかとか、どうしてみんながハイスタに熱狂してきたのか分からない若い人たちが多いと思うんですよ。そういう人たちに対して全てを説明できる作品になったと思います。

作品としての着地点は最初からしっかり見えていたんですね。

はい。「人生捨てたもんじゃねぇぞ」ということが伝わったらと思っています。それってHi-STANDARDのテーマのひとつでもあると僕は思うんですよ。彼らもMCでよく言っていますけど、「たとえ今、嫌なことがあるとしても、明日には何があるかわからないから、とりあえず前に進んだほうがいいんじゃね?」って。Hi-STANDARDはそれを地で行っているわけで、「そんなこと言ってもさぁ」なんて泣き言を僕たちは言えないと思うんです。だから、この作品を見終わって映画館を出たときに、少しでも気持ちが楽になっていたらいいですね。「ちょっとだけ嫌なこと忘れられた!」とかそれぐらいでもいいんです。人生は面白いんだっていうことをHi-STANDARDを通して感じてもらえたらと。“Never say die, motherfucker!”ですよ(笑)。

Interview by 阿刀"DA"大志